昭和49年02月11日 朝の御理解



 御理解 第66節
 「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。」

 ちょっと比喩しておられる、皮肉を言っておられるような教えですね。信心のない者ばかりはしょうがないなと。と言うて可哀想と言うのじゃなくて、信心のない者ばかりは、さぁ知者だ徳者じゃと言いながらです。生まれて来る時には、日柄も何も言わずに生まれて来ておりながら、途中ばかりを日柄を言う。可笑しい事じゃないかと言っておられるんですよね。私は思いますのに信心をさせて頂くと言う事。
 勿論お道の金光教の信心をさせて頂くと言う事は、心が段々大人になって行く事だと思うです。言うなら段々本当な事が解って来るのです。天地の大恩が分かり天地の道理が分かり、本当にこの広い天地の中に、神様のご恩恵に欲しない場もなからなければ、日とてももないのだ。今日は何曜日だから人間が困る様にしてやりましょうとか今日は何日だから、是は人間の小さい浅い浅い考えででっち上げた一つの学問である。
 天地の大恩恵大きな天地のお恵みの事が分らせて頂いたら、それこそあるものは神愛のみ。あるものは有難いものばっかり。何時もなからなければかつもない。そう言う事が段々分からせて頂く。それは天地の御恩恵が分かり、同時に道理が分かって来る。心が段々成長して来る。指出の久保山さんが毎日朝お参りになります。ここへ私共が参りました、その当初から、ずっと信心が続けられております。本当に金光様の信心を頂くようになって、楽になりました。
 この頃からご普請がありよります。まぁ家を壊す事についても、又は事業をするにも、近い内棟上がございますが、先日十三日と言う神様の願いが成就する日と言われるような、そういう日を一つ選ばせて頂く何の日とかかんの日とか、大工さんは色々言われる。けれども私の方は、何にもそう言う事は懸念しませんから、都合のよか時にして頂く。その事だけでも自由な心が頂けたと言うて、お礼を言うておられます。
 まだ五年あまりの信心ですけれども長年信心はしておっても、まだまだ日柄を言うたり方位を言うたりすると言う事は、いかにその人の信心が成長しておらないかと言う事が分かります。先日もある人が旅行に、どうぞお天気のおかげを頂かせて下さいと言うお願いであった。お取次ぎをさせて頂いたら、神様がお湿りと頂いた。どういう訳にお湿りかと言うと、その人が信心しよっても日柄方位方角、迷信をしっかり言うからです。天地に対する御無礼と言う事のお詫びの印にでも。
 お湿りを修行として受けて行けという意味の事を頂いた。是は天地に対する所の、大変な御無礼なんですよ、日柄方位などを言うと言う事は。只言うとか言わんとか世間一般で言うから、そうしとかにゃと言うぐらいで済めば良いけれども、その事が前々の巡りで難を受けおると言った様な事になるのですから。そりゃそうでしょう天地の働きに対してケチをつけるような事ですから。人間が少々悪い事をしたとか、どうとかと言った様な事の御無礼よりか、もっともっと天地に対する御無礼ですから大きいです。
 お天気のお繰り合わせなんかでも、本当に頂く人は天地に対する、そういう御無礼な事はいつもが有難い日として受けて行くような人が、天気の事は願わして貰うなら必ずお天候の上にもお繰り合わせ頂きます。信心は何十年しよっても心が一つも成長して行きよらんと言う人もあるです。しかし本当に悲しいですね。何十年たったちゃ子供んごとある。信心のない者の様な事を、言うたりしたりしておると言う事は、こりゃ親神様の目からご覧になったら、本当に悲しい事でおありになると思うですね。
 私共の心が段々成長していかないと。昨日もやっぱ三時間か四時間ぐらいかかるでしょうか。此の頃毎日日参をしてるお母さんがあります。子供さんがちょっと出来が悪い。出来が悪いと言うのが、まあ不良じみてきた。それで友達が悪いの何のと言うておったけれども友達ではない事が少しは分かって来た。それで一心にお願いさせ頂いて、二三日前参って来た時に、私がお宅の息子さんは私が親孝行ですよち言いました。けげんな顔で帰られたがその事が二三日考えたばってんどうしても分からん。
 こげな親不孝者ばどうして親孝行ち言いなさるじゃろかとその事をお伺いされたんです。それで私が久留米の石橋先生の話を致しました。久留米の初代の御長男である光男先生は、小さい時に高い所から落ちて頭を打たれた。普通で言うなら本当のお役に立たないような所をおかげを頂いて、教師の資格も取られた。それこそ御祈念でもなさったりする時には、初代親先生そっくりのような、熱烈な御祈念がお出来になりよりましたけれども、こちらへ下がられるとやはりちょっと可笑しかったんです。
 ある時に小倉の御大祭なんかの御直会の席上かなんかで、それこそ当時の偉い先生方が、きら星のように並んでおられる御直会場で、桂先生が石橋先生に向かって仰った。石橋さん、あんたんとこの息子は馬鹿じゃなと仰った。そしたら間髪をいれず、石橋先生が仰っておられる事はです。親先生おかげで信心が出来ますと言われた。石橋さんでかしたと言うて、一番に盃を差されたと言うお話が残っております。
 して見ると光男先生は、石橋先生の為に親孝行であった事になる。おかげで信心が出来るのですから。ですから息子が馬鹿息子と言うても、只どうぞ馬鹿が利口者になりますようにと言うて、お願いばっかりして例えおかげ頂いても、そりゃおかげだけです。そういう信心が何十年続いたって大した事ありはしません。言うならば親不孝と思うておった息子のおかげで三時間も四時間もかけて、沢山のお金を使うて毎日毎日合楽にお日参りさせて頂いておるが、参ると言う事がおかげではない。
 お参りをする事によって信心を頂かせて貰う、信心が分からせて頂くからその息子がおらなかったら、合楽のあの字も知らなかった人でしょう。金光様のこの字も知らなかった人でしょう。それが金光様の有難い事が分かり、信心が分からせて頂くと言う事ですから、あんたんとこの息子は親孝行って、私が言うたとですよと言うたら、あぁそういう意味ですか、そんならどうでも矢張りおかげを頂かなければ、親孝行な息子と言う事は言われません。いやおかげは頂かんでんいいです。
 問題はあなたが信心が分かれば親孝行になるとですよと言うて話した事でした。その事を通しておかげで信心が出来ます。だから参って来た拝みよると言う事だけでは、そりゃ信心にならんのです。信心させて頂く事によって、今日あたりの御理解から頂きますとです。今までは方角も言うた日柄も言うておった。けれども信心させて頂いて心が成長して参りましたら、日柄もなければ方位もない。
 あるものは神愛だけだと。神様の御恩恵の中にあって、今までのお粗末御無礼の事に対しては、お詫びをする気になり、これからは自由無碍な大天地の中に、生かされて生きておる喜びを、謳歌しながら生活をさせて頂く。と言う様にです信心の心が成長したからです。子供の時に怖いと思うておった事が、大人になったら、あんなものをどうして怖いと思うておっただろうかと言うようにあるでしょう。日柄もなからなければ方位もない。そういう見方が出来ると言う事です。
 おかげで信心が出来ますと言う事は、心が成長して行くと言う事。難儀と思うておったが、その難儀のおかげで、難儀様のおかげで、今日のおかげを頂いたと致しましょうか。して見るとそれは難儀ではなくて、それは神様が、こういうおかげを下さろうとする働き以外になかった事が、分かって来るような信心を身につけていかにゃいけんのです。そう言いながら、私共は、やっぱりいたりきたりしましてね、普通なら心配せんでもよい事でも何かの拍子に、えらい心配になって眠られんような事がある。
 昨夜私はそう言う様な、取り越し苦労と言うか、心配て言うか寝ながらしきりにその事考えたら、ますます目が冴えて来ると言うのは、昨日の朝にも聞いて頂いた、夕べの月並祭にも聞いて頂きましたように、アメリカの、離れ島に布教しておられる先生の話を致しましたね。家にも次々と沢山修行生の方達が出来て行きよるが、みんな何処にか布教に出らなきゃ行けないが、そん時にやっぱこういう難儀な所を通らせなければ出来んのだろうかと思い出したらしきりにそれで心配になってきた。
 それからとうとう起き上がって御祈念をさせて頂いた。そしたら私でしょうもう手がこんなに短い両方ながら。ちょうど手負いにあった雀かなんかがですね、地に落ちてバタバタ、こうやってるような状態を、人間がそうしておる訳です。お前がどんなに心配した所で、お前の手の届く所じゃなかろうがと仰る。神様のおかげを頂かなければ出来るどこじゃないんだもん。
 お前がいくら心配したとこで、お前のそれだけ修行生の上の事思うてやる。そして修行生が助かると言うならばってん、お前がいくら心配してやったからと言うて、修行生が助かる訳じゃない、人が助かる場が出来る訳がない。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだから。いや手が短いから手は届かん、お前の手では届かんのだ。お前がいくら心配しても同じなんだ。途端に私の心が開けて来た。おかげで心が成長した気がする。そして合楽の修行生の方達に対する、私が徹頭徹尾言うておる事。
 昨日も天地人の天行地行、人行という事を申しました。こりゃもう合楽の信心をさせて頂いている者は、ここに信心する稽古の焦点を置く以外にない。勿論焦点は和賀心だけれども、和賀心になってしまわなければおかげは受けられんと言うのではなくて、それに心を向けるという事なんだ。そうだ天行と言う事は、神様が私共に求めて下さる修行を、ひとつ合掌して受けて行けと言うのでしょう、成り行きを大事にすると言う事は。地行と言うのは、業務の行ですね、農業とか商業とかいう行です地行。
 これは神様に与えられた天職そのものを天職として、それを頂かせて貰うと言う事。その例を昨日教報に出ておりました話しを例にして聞いて貰った。満州から引き揚げて来たお医者さんが、市の病院に勤めておられた。所がその病院が払い下げをすると言う事になった。当時の金で800万という大金である。しかも市の有力なお医者さん方が、三四人それを自分の手に入れたい、自分のものにしたいと言うて競争相手が何人も出来た。金はないけれども、やっぱ欲しいと思うて親教会に手紙でお願いをされた。
 そしたら親先生からハガキが来た。金光大神様を院長にしておかげを頂けと書いてあった。金光大神様を院長にしておかげを頂けと言う事。お前は副院長だぞと。いかにもその病院を買い取ったようなおかげを、そこに指示しておられるように感じられた。市会議員の方で、言わば他所者ですから、あんまり交際もなかったんですけども。ある市会議員の方がえらい腰を入れて下さって、そして金を銀行から借りる心配までして下さって、結局その方が、病院を買い取る事が出来たと言う話が出てきてました。
 地行と言うのはそう言う意味なんです。言うならば神様に使うて頂くと言う事です。神様がご主人で、私は番頭さんという意味なんです。生神金光大神様が院長さんで、自分は副院長の座にあって、院長の支配の元にと言う事なんです。地行と言う事はそう言う事なんです。だから此の方の行は家業の行と仰る。ただ一生懸命働きゃ参らんでんよかと言ったような人があります。私は一生懸命働きよる、家業の行ばしよるからお参りせんでええ。それは欲と二人でしよる行です。
 本当の意味に於いての家業の行と言うのは、神様がご主人であると言う事。神様が院長さん生神金光大神様が院長さんで、今(?)と言う様なそういう頂き方。しかも一生懸命にその事を働く。例えば五つの願いの四っつ目ありますように、真実の御用が出来ますようにと言うのはその事です。真実の御用と言うのは仕事。仕事と、その事に仕えると、私は言っておる。仕事と言う事は働くと言う事、と言う事は傍を楽させる、傍が楽になる為にと言っておる。奉仕と言っておる。
 奉仕とは仕え奉ると言う事なんだ。院長さんを神様として、副院長の座にあって院長に仕えると言う。それが奉仕だ。それが仕事の内容でなからなければならない、御用の内容でなからなければならない。そういう御用が出来て初めてそれを地行と言うのです。それで天地人と言いますから、人行という事について上野先生が「奉一行」と言う事を、神様から頂いた事について聞いて頂いた。そんなら人間の行と言うのは、そういう天行地行を全うし得る為に、天行地行ならしめる為に。
 天行が本当に出来る事の為に、地行が本当に出来る事の為に、そこに力を頂かなければならない。そん為にはです例えば朝参りの修行もさせて貰います。たまには自分の力を鍛える為と申しますか、場合によっては、火の行、水の行でも、敢えてさせて貰えるくらいな、これを昨日は人の行という風に申しました。その位な行でも、填って出来るくらいでなからなければ、天行を天行として受けきらん。地行を地行として成就させきらん。と言うように、私共の心が成長してきた。
 だからお参りをしておる、続けておると言う事は、そりゃお参りは出来ておるけれども、信心が出来よると言う事ではない。信心がでけると言う事は、心が成長して行くと言う事だ。心が成長するから、今まで怖いと思うておった日柄。凶悪日悪い日とかよい日とか言う、それを怖がっておったのが怖くなくなった。いやむしろ有難い日そして受けれるようになると言う事は、心が成長すると言う事だ。
 そういう信心を繰り返しさせて頂く中にはです。やはり心配な事が起きてまいりますと、眠られんように心配をしておる。そして私じゃないけども、それこ、おかげを頂かなければ出来る事ではないじゃないかと。そこ辺な私が修行生の方達の事を心配しておったと言うのはプロですからね、玄人にならにゃならんとです。人を助けると言う立場にならないかんとですから。それにはまず自分自身が助からなと言っておる。
 だから合楽の方達が出たらです、そういう美談のように言われて来た。もう死ぬか生きるか、食べもんもなきゃどうと言った様な修行せんでも、私はおかげで人が助かると思うんです。合楽で修行しておる修行生の方達は。そういう天行地行人行と言った様なものを身につけて、そして自分の助かるという事の上に、より助かると言う事は限りがないですけれどもその所の、根本の所を受けておるから。
 私は考えてみた家の修行生は、例えば昨日私が読ませて頂いたような、修行に出たら私は楽だと思う。その代わりに修行に出る前に、先ず自分自信が助かる事の為に修行しよるのだから。これはここの修行生だけの事ではありません、ここにご縁を頂いておる皆なの方達は、先ずは私自身が助かる事の為に、私を初め皆さん達もそうである。自分が助かると言う事は、心が愈々豊かに大きくなると言う事ですから。愈々素晴らしい成長を遂げて行くと言う事なんです。
 そこには怖いものない、言うならば日柄方位なんかは、それこそ教祖様じゃないけれども。ここでは比喩しておられるような感じですね。おかしな事じゃないかと。生まれて来る時には、何の日かんの日を言わずに出てきとってから、死ぬる時もそれこそ日柄も見らずに果てているではないか。道中途中だけを日柄の方位の言うて、こんなおかしな事ないじゃないかと言うておられるんです。そこで信心による事によって心が成長して来る、心が育って来る。
 そこからそう言う事が、全然問題ではない事が分かって来る。問題ではないじゃない、今まで天地に対する所の無礼な事を、言うたりしたりして来た事を、当たり前の事のようにして御無礼を働いて来た事を、お詫びする心すらが出来て来るのです。心が愈々成長する。そういう成長を頂いてこそ初めてです出来損のうた、その息子も親孝行だと言う事が言えるのです。こんな難儀があろうかと思うとった、その難儀がそれこそ「様」をつけたい難儀様のおかげで、今日があると言う事に、なってくるのじゃないでしょうか。
   どうぞ。